まるで座敷犬の遠吠え



【長崎原爆忌】市長「被爆国、リーダーシップを」 平和宣言の全文 (1/2ページ)
2010.8.9 11:52 産経新聞


 被爆者の方々の歌声で、今年の平和祈念式典は始まりました。


 「あの日を二度と繰り返してはならない」という強い願いがこもった歌声でした。


 1945年8月9日午前11時2分、米国の爆撃機が投下した一発の原子爆弾で、長崎の街は、一瞬のうちに壊滅しました。すさまじい熱線と爆風と放射線、そして、燃え続ける炎…。7万4千人の尊い命が奪われ、かろうじて死を免れた人々の心と体にも、深い傷が刻み込まれました。


 あの日から65年、「核兵器のない世界」への道を一瞬もあきらめることなく歩み続け、精いっぱい歌う被爆者の姿に、わたしは人間の希望を感じます。


 核保有国の指導者の皆さん、「核兵器のない世界」への努力を踏みにじらないでください。


 ことし5月、核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、当初、期限を定めた核軍縮への具体的な道筋が議長から提案されました。この提案を核兵器を持たない国々は広く支持しました。世界中からニューヨークに集まった非政府組織(NGO)や、わたしたち被爆地の市民の期待も高まったのです。


 その議長案を米国、ロシア、英国、フランス、中国の核保有国の政府代表は退けてしまいました。核保有国が核軍縮に誠実に取り組まなければ、それに反発して、新たな核保有国が現れて、世界は逆に核拡散の危機に直面することになります。NPT体制は核兵器保有国を増やさないための最低限のルールとしてしっかりと守っていく必要があります。


 核兵器廃絶へ向けて前進させるために、わたしたちは、さらに新しい条約が必要と考えます。潘基文国連事務総長はすでに国連加盟国に「核兵器禁止条約」の検討を始めるように呼び掛けており、NPT再検討会議でも多くの国がその可能性に言及しました。すべての国に、核兵器の製造、保有、使用などの一切を平等に禁止する「核兵器禁止条約」をわたしたち被爆地も強く支持します。


 長崎と広島はこれまで手を携えて、原子爆弾の惨状を世界に伝え、核兵器廃絶を求めてきました。被爆国である日本政府も、非核三原則を国是とすることで非核の立場を明確に示してきたはずです。しかし、被爆から65年が過ぎた今年、政府は「核密約」の存在を明らかにしました。非核三原則を形骸化してきた過去の政府の対応に、わたしたちは強い不信を抱いています。さらに最近、NPT未加盟の核保有国であるインドとの原子力協定の交渉を政府は進めています。これは、被爆国自らNPT体制を空洞化させるものであり、到底、容認できません。

ソース:
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100809/lcl1008091153002-n1.htm



今年もこの日がやって来た。「日本人は65年も前のことをいまさらとやかく言っている、しつこいことこの上ない」と諸外国の人は思っているだろう。そして現実を知っている外国人はこのようにも思うはずだ「日本は国防をアメリカに頼っている、戦後直ぐに日米安保条約が締結され、アメリカの核の傘によって守られてきたのに、核兵器が無くなったら現実の国防はどうするのか?」と。

この考えは正論です、的を射ています。日本は日米安保によって、守られてきました。もっと具体的に言えば、アメリカの核の傘のお陰で「ソ連支那の核」から守られてきたのです。決して「日本国憲法第9条」によって戦争が回避されてきたのではありません。アメリカの軍事力によって日本を巻き込む戦争を回避できてきたのです。

小生はこのような現実を決して曲げて思考する人間ではありません。現実をキチンと直視できる人間と自負しています。

しかし毎年この時期になると「核兵器反対論」者や長崎・広島の市長が大手を振って「核兵器をなくせ」と言います、今年は「日本政府が非核の先頭に立って事を進めろ」とまで言及しています。

この人たちは本当に現実をキチンと把握できているのでしょうか? いいえ「現実を把握」せず「現実から目を背けて居ます」、それどころか諸外国の人が聞いたら滑稽なくらい現実から乖離しています。長崎・広島の市長や「核兵器反対論」者の方々は日本の国がどのようにして「核兵器」と対峙しているのかが分かっていません。

現実はアメリカの「核の傘」があるからこそ「ソ連北朝鮮支那」の核兵器への抑止力を発揮できているのです。

それを闇雲に「日本には核兵器は要らない」とか「非核三原則」とかを言い放って、どうやって日本の国を守るのですか?祈りを捧げるだけで日本の国を守れるのですか?

小生に言わせれば、アメリカの核の傘の守られていながら「核兵器は不要」とか言っている人は「川の中に居て水を求める」如き極めて破廉恥な人としかいいようが有りません。また声高に「非核を求める人たち」は、「座敷の遠吠え」にしか見えません。

国防は現実だ、核兵器は日本防衛に必要だ、それでも猶不要と言う者は敵の核兵器への対応を具体的に言う義務がある